これからお話することは、私の友人のお父さんが亡くなった17年前の体験談です。
今年の3月で、私(友人)の父親が亡くなってもう17年になります。
17年も経つのに父が亡くなった日のことは、今でも鮮明に覚えています。
父はまだ40歳半ばでした。
私は当時20歳、弟は18歳の学生でした。
父も母も働き盛りでしたので毎日忙しく働いていました。
私たち家族はウィンタースポーツが大好きで、よくスキー場に遊びに行きました。
私と弟はスノーボード、父と母はスキーを、毎年冬になると楽しんでいました。
父は昔、スキー場でスキーのインストラクターのバイトをしていたらしく、その腕前はすごいものでした。
17年前の冬も何度も家族四人でスキー場へ遊びに行っていました。
そんな友人のお父さんが若くして亡くなった原因と、お葬式から火葬までの体験談をご紹介します。
楽しかった家族とのスキー旅行の思い出
いつも日帰りで遊びに行くことが多かったのに、この年は、いつもより遠いスキー場へ2泊でいこう、と父親の提案で何年ぶりかのスキー旅行に行きました。
12月30日からの年越し旅行は本当に楽しく思い出に残るものでした。
日中は四人で休憩をとりながら滑りました。
父は私の後ろからビデオカメラで撮影しながら滑っていました。
もともと父は運動神経がよくて、何をやっても父には勝てませんでした。
悔しいから、スノーボードの経験がない父に「スノーボードやってみてよ。」と弟のスノーボードの板をはかせ滑ってもらいました。
あの時のことを思い出すと今でも吹き出しちゃうくらい面白かったです。
立つことすら出来ない父は、まるで「ひとで」のような格好でおりてくるんです。
あんまり面白くて、母と私と弟は大笑いしました。
父はちょっとふてくされてました。
今までは、なんでも私や弟に勝てていたから負けず嫌いの父はよほど悔しかったのでしょう。
この時宿泊した旅館も忘れられない思い出があります。
旅館への道は、大通りから細い道を入ったところにありました。
その細い道が急な上り坂でした。
しかも、大雪でどこまでが道なのかよくわかりませでした。
大雪なのに、このときの車の運転は、免許を取立ての弟でした。
父は、雪道に早く慣れるようにと、ずっと弟にアドバイスしながら運転をさせていました。
この細い上り坂に来た時、弟は無理だと言ったけど、「おもいきり行かなきゃ!途中で止まったらもう上がれなくなるぞ。」と父は一言、言っただけでした。
私と母は後部座席で「こわい~!」と騒いでいました。
弟もなかなか勇気が出ないようでしたが、少し時間をおいて「よ~し!」一気に急な坂を登りました。
無事に上がりきったところで、四人で大笑いしました。
何が面白かったのかわからないけど、私は安心して笑っていたと思います。
ぼろぼろな旅館の割には家族的で暖かく、雰囲気のいい旅館でした。
夕食は特別高級な食事というわけじゃないけど、みんなで楽しくおしゃべりしながら食べたことを昨日のことのように思います。
父との最後の別れの言葉
元旦の朝、父と母は部屋の窓から初日の出を見ていました。
「日の出みないのか~?」と父親の声がするけど、私と弟は眠たくて起き上がれませんでした。
こんな楽しい旅行から2ヶ月後、忘れられない日が来るんです。
「明日スキー行こう!」といつも急に決める父ですが、この日も同じでした。
私が仕事から帰ると、「明日、朝一でスキーに行こう。」と誘われたのですが、私は明日は仕事が入っていたため「ごめんね。」断りました。
弟はもともと友達と遠出する予定だったらしく、行かないとのことでした。
結局、父と母の2人で行くことになりました。
2人で行くのは別に珍しいことではありませんでした。
明日のスキーが楽しみな父は、ニコニコしながらストーブの前で、こぶ滑りのイメージトレーニングをしてました。
「ありがと。お前が起きる頃は、俺たちはスキー場だ。ゆっくり寝ていい夢みなさい。おやすみ。」
元気いっぱいの父と、最後に交わす言葉だなんて、あの時の私は思うわけがありません。
こんなに短い言葉・・・。
突然の父の死亡の連絡と死因
朝起きると、父と母はあわただしく家を出たようで、父のパジャマがたたまれないまま部屋に置かれてました。
私も仕事へ向かい、いつもとかわらず午前中が終わりました。
職場でお昼ご飯を食べて、また午後の仕事に入るという、ここまではいつもと変わりませんでした。
13時20分、職場に1本の電話が私宛にきました。
親戚のおばさんからでした。
「お父さんが大変だから、すぐに家に帰りなさい。」
向こうがパニックになってて、話してることがよく理解できませんでした。
父に何があったのか、一緒にいた母は大丈夫なのか、私はとても胸騒ぎがしてすぐ家に帰りました。
若かった私は、職場の人に十分な説明もせず飛び出してきちゃいました。
職場から家までの通勤時間は、車で10分でした。
あの日どの道を通って帰ってきたのか、さっぱり覚えていません。
車を降りて、震える足で転びそうになりながら部屋に入ると誰もいなくて、父のパジャマが朝見たときのまま置いてあり、部屋は信じられないくらい静かでした。
あの時、あの静かな空間で父のパジャマを手につかみながら私は、あんなになんでも出来て強い父に何かあるわけがないと自分に言い聞かせました。
静かな空間の中で急に電話の音が鳴り響きました。
友達と遠出している弟からの電話でした。
「姉ちゃんか!?お父さん達のところに行くから、俺が帰るまで家で待っててくれ。」
父たちに何があったのか弟に聞いても、母は大丈夫だということしか教えてくれませんでした。
後から知りましたが、弟のところへ母から直接電話があって、父がスキー場でたおれ、病院に運ばれたこと、すでに呼吸をほとんどしていないことが伝えられていたそうです。
私にはまだ伝えない方がいいと母と弟2人は話したそうです。
弟は友達とかなり遠い所にいた割には早く家に着きました。
私たちはすぐに父が運ばれたという、よく家族で行くスキー場の近くの病院に向かいました。
早くても3時間半はかかる場所でした。
父が、呼吸もほとんどしていないなんて知らない私は、ただ父が心配で心配でしょうがありませんでした。
3時間半の道のりの中、父が無事でいてくれることだけを願ってました。
病院に着くと、父方の祖母と父の兄弟が外で待っていて、早く父のところへ行くよう言われ、走って看護婦さんのあとをついていきました。
看護婦さんは誰に伝えているのか、大きな声で「お子さんが到着しました!」と叫んでました。
廊下の先に母の姿が見えたので、いそいで弟と私は母の前に行きました。
母は弟の肩にもたれかかり号泣しながら、「お父さんが死んじゃう!どうしよう!」って繰り返してました。
私は何が起きたのか聞こうとしたら、医者が来て「お父さんにあってあげて。」と父のいるへ病室に案内してくれました。
母と私と弟3人で病室に入りました。
病室に入った瞬間、目を疑いました。
よくテレビドラマで見るような、酸素マスクみたいなものをして、体中に線みたいなのがついてて「おとうさん。」って言いたかったのに声がでませんでした。
明らかに父は意識がまったくないのが見てすぐわかりました。
父と母は、午前中は一緒にスキーを楽しんでいたそうです。
一緒に昼食をとり、その後母は車の中で休憩、父はひとりで滑りに行ったそうです。
父は一番急なコースの途中で座り込んで、そのまま横になった格好で発見されたそうです。
最初に発見してくれた方の話では、転んだ形跡はまったくないとのことでした。
私たちも、父がスキーで転ぶ姿など今まで見たことがありません。
発見された時、呼吸はなく脈もなんとかとれるくらいだったそうです。
医者から詳しい説明があるということで、別の部屋に移動しました。
頭の中のレントゲン写真を見せながら説明してくれました。
病名は「くも膜下出血」と診断されました。
なんでも父の場合は、頭の中の一番太い血管が切れて、一気に出血が広がったというような説明だったと思います。
そして、外傷はまったくないということでした。
若かった私と弟は初めて耳にする病気で、くも膜下出血がどんな病気か知らないので、手術すれば治るのでは?と弟が医者にたずねると99%助からないとの返事でした。
また、私たちが到着するまで、ということで機械で心臓を動かしていることを知らされました。
医者はこれからその機械をはずすので、父親のそばにいるようにと言いました。
私たちは父親の病室で、父親がいろいろな機械をはずされていくのを泣きながら見ていました。
すべてをはずして、いつもの父の姿になりました。
ただご機嫌に寝ているだけにしか見えないので、「お父さん、起きて!」と私が言うと、母と弟も、父の手首を掴んでゆらして「お父さん!」「お父さん!」って何度も父を呼んでました。
医者が言うには、父は若いので心臓自体は丈夫らしく、機械をはずしても心臓は動いてました。
しかし、徐々に心臓の動きが弱くなってくのがわかりました。
心臓が動いてるうちに父を起こせば意識が戻るんじゃないかと思って、ずっと弟と「お父さん!」と呼び続けました。
心臓がとまってもまた動き出す、というのを繰返してました。
父も必死で頑張ってたのかもしれません。
まだ生きたくて・・・。
医者が父の目を開いてライトをあて、ご臨終です、と私たちに伝えてたけど、私は現実を受けいれることができませんでした。
ご臨終と伝えられるとすぐに部屋の外に出されました。
父の葬式とお通夜
しばらくして父のところへ戻ると、死んだ人が着る浴衣みたいなものを着せられていました。
きっとあれは、死装束と言われるものだったんでしょう。
その後また3時間半かけて、父と一緒に家に帰ってきた時には日付がかわり午前2時でした。
涙が枯れることはなく、黙ったままいつも父が寝ていた場所に父の布団をひきました。
そこへ父をみんなで寝かせました。
みんな泣きながら、黙々と動いていました。
皮肉にも、当時わたしの職業は地元の葬儀屋でした。
深夜2時過ぎに父が亡くなったことを、その日の当直者に連絡をしました。
連絡後すぐにドライアイスを持って来てくれました。
同じ職場の人だったけど、何も聞かずに帰って行きました。
次の日は、たくさんの親戚や知人が、せまくて小さな私たちの家に集まっていました。
私は父のお線香を絶やしたくないという理由と、父のそばから離れたくなかったので、ずっと父の隣にいました。
明日のお通夜が終われば、父は焼かれてしまうと思うと父がかわいそうでたまらない気持ちでした。
葬儀屋の仕事をしていた私は、初めて葬家の家族の気持ちがわかりました。
通夜の日は、たくさんの会葬者の方が来てくれていたそうですが、私は全然まわりがみえていませんでした。
明日の告別式で父が焼かれてしまうのが嫌、ただそれだけを思っていました。
父の告別式から火葬場での思い
告別式を終えてから火葬という順番でした。
告別式の前に火葬する場合もあるので、その点では少しでも火葬までの時間が伸びることに安心した私でした。
でも、いざ告別式が始まると、「終われば焼かれてしまう。」涙って枯れないんだなあ、と思うほど涙が後から後から流れ落ちました。
同じ職場の方の司会の声も私には、届きませんでした。
いつもは私が司会をしている方なのに・・・。
告別式も一般の家庭にしては会葬者が多かったらしく、用意していた引き物が全然たりず何度も追加でもってきたそうです。
後から知り、たくさんの方が父のために来てくれたことが嬉しかったです。
そんなにたくさんの方が来てくれていたのに、私はお礼を言うどころか泣いているだけでした。
職場の方たちも、普段よりもかなり多い人数で父の葬儀を見守ってくれたのに、お礼を言うどころか話すこともできませんでした。
告別式が終わり、葬儀屋の方が火葬する部屋へ案内してくれたので、静かに進みました。
いつもは私が仕事で案内してるのに・・・。
火葬の直前に、「柩の窓を開けて最後のお別れをしてください。」と言われました。
父は穏やかな顔でした。
母が声を出して泣きました。
そして、私と弟で母を囲み一緒に泣きました。
父が、かまに入っていく姿を見てまた3人で声を出して泣いてしまいました。
火葬が終わるまで、通常は2時間くらいかかるのですが、若い人はもう少し長くかかります。
父の場合、若いので2時間半は待合室で待つようにと言われました。
でも、父がひとりで焼かれているのがかわいそうで、かまの近くにいようと思いました。
弟も同じ気持ちだったようで「お父さんのところにいよう。」と、私に言いにきました。
私たちは「お父さん熱くてかわいそうだね。」くらいの会話をかわし、ずっと父のかまの前にたっていました。
私たちにはこれくらいしかできません。
火葬が終わり、父の骨を目にすると、私が仕事でいつも見ている骨とは違って、太くて長いままでした。
父が骨になってしまうと、今度は、父に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
親孝行したい時には親はなしの意味
父が生きていた頃、よく笑いながら言ってました。
「親孝行したいと思った時に親はいない、ってよく言うんだよ。」
今その意味がはっきりとわかりました。
大切に育ててくれたのに、私はたくさん迷惑をかけて、父には何にもしてあげられなかったです。
こんなに早く父との別れが来ると思ってなかったし、ずっと一緒にいれると思っていたのに・・・。
17年たった今でも、後悔の気持ちでいっぱいです。
雪が降ることの珍しい関東で、雪が降ると思い出したくないあの日を思い出します。
「今までありがとう。」「今までごめんね。」といいたかったです。
だから、親はうざいとか思っていても、今親孝行してください。
「親孝行したいと思ったときに、親はいない」こうならないように。
何十年たっても後悔するから・・・。